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2012年3月11日午後2時46分

震災からちょうど1年後のその日、その時間を、コンビニに駐車した車の助手席でむかえた。
運転席と後部座席には友人たち。
車載テレビに流れる追悼式の映像。
黙祷の合図とともに、周囲にはサイレンが鳴り響いた。
目を閉じて手を合わせる人々は、いま何を思うのか。

震災後に福島へ帰郷するのは2度目だが、前回は親戚回りをするだけで時間がなくなってしまったため、友人たちと会うのはひさしぶりだ。
いっしょにご飯を食べ、遊び、酒を飲みながらくだをまいて、風呂に浸かり、同じ部屋で寝る。
変わらないことに安堵して、たくさん笑った。

新聞には毎日、放射能の線量が掲載されている。
スーパーで野菜を買う伯母は、「どうせお金を出して買うなら福島産じゃないほうが安全じゃない?」と笑って言った。
毎年お米を送ってくれるおじからは、震災前の古米が届いていた。
何も変わっていないわけではない。

帰る場所は福島で。戻る場所は東京で。
暮らしはここに根付いているはずなのに、帰郷するたび、まだ旅をしているような気分になる。
いつ終わるのか。いつかは終わるのか。終わるようなものなのか。

週末、田舎に帰って、後輩の結婚式に参列させてもらった。
人里を少し離れた山路の先、雪の積もるなか、式場はとても温かかった。
終始カメラマンに徹していたのですが、とても良い式と宴の空気を、肌で感じることができたように思う。

 

ひとつ年下になる後輩の新婦から、いいひとができたってことは以前から聞いてはいた。
でもその相手(新郎)に会うのは、今回がはじめてだった。

実は新婦は初婚ではなく、子供もいて、まあ色々なこともあってちょっぴり人選に不安もあったのですが、新郎に会って、少し話をして、そんな不安は全部吹き飛んでしまった。それくらい、素敵なひとだった。
うん、これは当たりだ。(笑)

 

披露宴は身内の参列者が主で、友人はごく少数。
新郎側に知り合いがいないのはもちろんのこと、新婦側にも、高校時代の後輩がひとりいるだけ。まったくのアウェー状態。
それなのに、居心地の悪さはまったくなかった。むしろ、披露宴の時間が短く感じたほど。これは珍しい。

『類は友を呼ぶ』という言葉の通り、新郎新婦のおっとりとした柔らかな雰囲気が、似たような交遊関係を築いたのだと思う。
親族しかり、友人しかり、先輩や上司しかり。みんなが誰もを羨んでなくて、見守っていて、それがとてもフカフカとする雰囲気をつくりあげていた。そこにいると、ひなたぼっこをするネコの気分になれた。ような気がした。

 

披露宴が終わると、式場出口近くで、新郎新婦と両親が参列者を見送ってくれた。
終始忙しかった新婦と、ここにきてやっと短い会話ができる。
「よかったな。もう、だいじょうぶだな」そう声をかけると、新婦が目を潤ませはじめた。これはやばい、と別れを告げてその場をあとにする。
歩きながら深呼吸をして、目頭を拭う。やばいのはわたしのほうだ。

数年前、まだ地元にいたころ、彼女(新婦)がひとりで家に来た時のことを思い出す。

居間でプリンを食べながら、最近の話、食べ物の話、よくわからない話をして、ついでのように離婚を決めたことを告白された。
話したことでほっとしたのか、言葉にしたことで実感したのか、彼女はそのあとしばらく泣いた。それまでの道のりは彼女にしかわからないことだから、わからないわたしはただずっとそこにいただけだった。

ひとしきり泣くと、彼女は笑って、プリンを平らげると帰っていった。
車を見送りながら、いつの間にか夜になっていたことに気付いて居間の電気を点け、そういえばはじめて涙を見たな、ってあとから思った。

同じ涙でも、この日彼女が流した涙は、見るひとを微笑ませるもの。
もしいつかまた涙を見ることがあったとしても、それはこの日流したものと同じ類のものであって欲しいと願う。

 

披露宴のいちばんの見所は、会場のスクリーンに流れた新郎新婦の紹介ムービーでした。
新婦が制作したもので、幼いころからの写真が、テロップとともに次々と映し出された。
そこには、ふたりだけではなく、ふたりを取り巻くたくさんのひとたち、そして新婦の子供の姿もあった。

子供はすでに、新郎のことを「お父さん」と呼んでいた。
でもそれが全然違和感がなくて、スクリーンに映る3人並んだ写真を見ていると、「え?もうずっと前から家族ですけど何か?」そう言われているような気がした。いま思い浮かべてもジンとくる。

 

照れくさくて、実はまともにちゃんと言ってなかった。

結婚おめでとう。

幸せを祈ってます。心より。

仙台に支店を出すことになった。
そこでいま、仙台で求人募集をしている。

予定人員は3名。ディレクター1名のデザイナー2名。
デザイナーは派遣社員、ディレクターは正社員とする予定なので、ディレクターには必然的に管理者としての要素も必要となる。
もし仮に、適材なディレクターの応募がなかった場合、または、ディレクターとして雇用したものの、管理者としては不向きであった場合、こちら(本社)から誰かが仙台へ転勤することになる。
その対象として白羽の矢が立っているのが、オレなのだ。

本社には十余名の社員がいるが、うまく派遣社員を管理できそうな人材は、いないに等しい。
一人いることはいるのだが、転勤なんて言語道断という人種なので、そうするとやっぱり自分しかいないことになる。
先日社長に「仙台に転勤になってもいい?」と訊かれ、「別にかまいません」と返事をした。
仙台に行きたいわけではないし、できるなら東京で働きたいが、会社のことを考えると他に選択肢はないと思ったからだ。

東京に来て、まだ1年も経っていない。
それでも、色んな人と出会えて、たくさん繋がりが出来て、だんだんと暮らしにも馴染んできたように思う。
それがまた振り出しに戻ってしまうのかと思うと、もちろん寂しいし、切ない。
何よりも、妹とそう頻繁には会えなくなってしまうのが、いちばん辛い。

東京か、仙台か。
年内には行く末が決まる。
珍しく、最近夜が長い。

写真は早朝の新宿アルタ前。人影がない。こんなときでさえ、いまここで撮影できたら楽しいのに、なんて思う。

こっちへ来て初の朝帰り。
始発近くの列車で座るひとたちは、みな一様に眠りこけている。他人に囲まれたなかで、なぜこんなにも無防備でいられるのか不思議だ。
安全であるということは、緊張感がないということなのか。

家に着くまでのすべての色が白ずんでいた。
この数ヶ月間で知った気になっていたのは、どれほどのものだったのだろう。あの通りも、あそこのお店や書店も、そして関わってきた人たちも。

わたしは独りになるのが好きだ。
でも独りになってしまうのは怖い。だれだってそうでしょう?
たくさんの誰かの大切な人たちが消えていく。街の明かりのように。
けれどもう灯ることはないのだ。

手紙の整理をした。
大量に溜まった年賀状を、捨てさせてもらうことにした。
残しておきたいもの、捨てるものに分類していくと、捨てるもののほとんどが、最近の年賀状ばかりになってしまった。

十代後半や二十代前半のころのものは、そのほとんどが手書きで、今読んでもほっと和むようなたくさんのメッセージが綴られていた。よくわからないイラストや、お手製の消しゴム印など、見ていて思わずにやけてしまう。

それが、パソコンが普及し始めると、ほとんどがプリントしたものばかりになった。表書きも印字したものになり、書いた人の字が一字もないこともある。
近年は友だちのほとんどが結婚したこともあり、送られてくるのは子供の写真をプリントしたものばかりだ。正直言ってげんなりする。知りたいのは子供の状況ではなくて、友だちそのものなのに。

引越しが終われば、みんなに新しい住所を連絡するつもり。
はじめはメールでとも思ったけれど、やっぱり葉書で知らせようと思う。
所々プリントはするだろうが、そこに手書きのメッセージを添えるのだ。うまくはないけれど、気持ちをこめた文字で、元気でいるよと伝えたい。

ひさしぶりの面接。緊張しないで落ち着いていこう!と思っていたら、面接官の女性のほうが緊張していて、書類を持つ手がぷるぷる震えてた… こっちまで緊張したじゃないか!(笑)

受けたのは3社。
1社目は仕事内容が希望のものではなく、3社目はレベルが高すぎて体力的に参りそうだった。2社目が一番印象が良かったので、採用通知がきたら入社させてもらいたいと思う。
駄目だったら、週末に2社ほど面接する予定。

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Tという友人がいる。
幼稚園から中学校までいっしょだったが、その後私が家を離れてからまったく交流がなくなり、帰郷してからまた付き合うようになった男友だちだ。

面接を終えて帰宅した夜、ちょっとした用事があってTが家に来た。
そのとき、ちょうど、会社に提出しようと書いていた退職願がテーブルの上に置いてあり、Tに見つかってしまった。
以前から会社を辞めるかもしれないという話はしていたが、Tは冗談だと思っていたらしく、退職願を見て「えー!マジかよ!」とかなり驚いていた。
そして「頼む、行かないでくれ」と恋人のように(笑)引き止めはじめ、さらにSとHに電話をかけ、「重大な話がある」と呼び出した。

SとHも、事情を話すとひどく寂しがってくれて、心から、ありがたいと思った。
とくに、酔っぱらったTは「さみしい。ほんとさみしんだ」と泣きはじめ、わたしはどうしていいかわからず、恥ずかしいやら嬉しいやらで苦笑いするだけだった。
友だちっていいものだと、しみじみ感じた。

住む場所が遠くなると、どうしても疎遠になってしまうもの。
まだ勤め先も住む場所も決まっていないけれど、都内などに住むことになったら、きっと交流も薄れていくだろう。
それでも、こうして心から思いやれる友だちがいたということは、きっとずっと忘れないと思う。忘れないでいたい。

泣き止んだTに「年内じゅうに見つからなかったら、転職するのは諦める」と言ったら、「それがいい!そうすっぺ!」と元気になり、そのあとすやすやと寝てしまった(笑)

その寝顔を携帯で撮って、大事に保存フォルダにしまった。
きっとこの写真を消すことは、生涯ないだろう。

いまの生活は、とても安定していると思う。

たくさんの友だちと、気さくな同僚。田舎町だけれど、それほど不便でもなく、自然に囲まれた住みよい我が家。
ほどほどの仕事と、ほどほどの給金。平日の夜には麻雀やビリヤードをして、週末にはアミューズメントパークで子供みたいにみんなではしゃぐ。
休日にはゴルフをしたり、ひとりのときは写真を撮って、おいしいケーキショップへと車を走らせる。ストレスなんてこれっぽちも感じない暮らし。

そんな暮らしを捨てようとしている。そう決意してしまった。

週末、別の職場を探して面接に行ってきます。
いまの会社は、来月いっぱいで辞めるつもり。
だいぶ時間がかかってしまったけれど、やりたいことをやろうと思う。それが結果的に良くても悪くても、いまのままじゃきっと後悔するから。

不安と、好奇心と、懼れと、期待と。
きっとそんなものを抱えながら、新社会人みたいにドアを開けるんだろう。

親友くんが結婚することになった。

入籍はもう済ませたそうなので、正しくは”結婚した”だ。
電話で伝えられたとき、嬉しくもあり、ちょっとさみしくもあった。彼女の恋愛模様は、ずっとずっと見守ってきましたから。

連日のように、夜遅くまで仕事で駆け回っていた彼女がいまは、家事をしながらのんびりテレビを見たり本を読んだりという、とてもゆるやかな日々を過ごしています。
その様子を話す声は穏やかで、温かくて、これまでがいかに苦難が多かったかを物語っています。
もちろんこれから先にも難所はあるでしょうけれど、彼女ならきっと乗り越えていけると信じています。

お腹にはもう赤ちゃんがいて、来年の春過ぎぐらいには生まれる予定とのこと。
実は子供があまり好きではない彼女が、いったいどんな母親になっていくのか、想像するだけで楽しくてしかたない。

披露宴は、親族だけの内輪で行うそうですが、わたしともうひとりの友人には出席してほしいと言われました。
当日までの間に、状況が変わって、やっぱり親族だけの披露宴になるかもしれません。
それでもいまこうして、そう言ってくれたことを非常にありがたいと思う。

式は来年。冷たい冬の最中。
きっと快晴になるよう、ふたりを祝いたい。

もう、10年以上前になるだろうか。社会人になりたてのわたしは、何か趣味を持とうと、以前から興味のあった写真に目をつけた。
当時、デジタルカメラはあまり普及しておらず、選択肢のなかには銀塩しかはいってなかった。
あれこれ悩んだ末、お金を貯めてカメラを手にした瞬間の喜びは、いまだに覚えている。

その後、デジタルカメラが普及しはじめ、どんな感じなのだろうと思って買って使ってみたら、すっかりその便利さに馴染んでしまった。
以後、3台目、4台目と、やはりデジタルカメラを買い続けている。

数日前、探し物をしているときに、銀塩で撮った昔の写真が出てきた。リバーサルフィルムを使っていたので、ルーペで鑑賞することができる。
ちょっとだけ、と思いつつ、しばらく写真を眺めていた。何の変哲もない風景写真を。
懐かしさとともに、得も言えぬ不思議な衝動が湧き上がってくる。
もしかして、すっかり使わなくなったカメラが、また日の目を見せてくれって、メッセージを送ったのかしら?なんて考えてみたり。

ここ数年、ずっとポートレイトしか撮ってこなかったが、また風景写真でも撮ってみようかと思う。
いつかまた、懐かしさを味わうために。

遠い親戚にあたるおばあちゃんが亡くなった。
風邪で寝込んで、そのまま布団からでることはなかった。
92歳だった。

納棺の儀式の最中に、隣に親子が座っていた。
そして、4歳か5歳ぐらいの女の子が、お母さんにこんな質問をしていた。

「ねぇ、おかあさん。おばあちゃんは、これからどうやってお星さまになるの?」

お母さんは、黙って子供の頭を撫でるばかりだった。
わたしはなぜだか切ない気持ちになって、ただ俯いていた。


形あるものはいつしか崩れ、命あるものはいつしか息絶える。
それが人なれば、血は肉は骨は焼かれ、小さな壷の中へその名残を残すばかり。

心臓の止まりゆく時刻と、その者の生死は同じではない。
存在の有無を決めるのは、その者自身ではなく、その者を思う者こそだから。


おじいちゃん(旦那)も90歳を過ぎているが、まだまだ元気で、訪れたひとたちを出迎えていた。
70年以上もそばにいた愛するひとを失った気持ち。
わたしには想像することすらできない。

帰り道、夜道を歩きながら、玄関先で頭を下げていたおじいちゃんの姿を思い返していた。
明日11時、おばあちゃんは灰になる。
せめて健やかな快晴を、と、星空を見て願う。

わたしには、中学生以前の写真がない。
家を出た母親が持っていってしまったのか、父か祖母が捨ててしまったのか、小さい頃の写真がないのだ。
だから、昔の自分の写真があるひとを羨ましく思う。
とくに、家族団らんの写真などを見せてもらうと、ほろ苦いような、なんともいえない気分になる。

高校のころからはだんだんと写真が増えていくのだが、その中に、家族といっしょに写ったものが一枚もない。
思い出はすべて、記憶のなかにだけだ。

妹がいつか結婚するとき。
そのときはきっと集合写真を撮るだろうから、それがわたし(たち)にとって初めて家族とともに写る写真となる。
だいぶ月日が経ってしまったが、それを最後の一枚ではなく、最初の一枚にしたいって思う。

今朝は強風にあおられて、かつらと理性が飛んでった桜井です。
よーく考えよー お毛毛は大事だよー
飛んでったかつらは右の眉です。(嘘つくと上がるから)


わたしは小さいころから、台風が好きでした。
なんてことを書くと、台風で被害にあった方々からお叱りを受けそうですが、あの、風の音と雨の音、それに揺れてきしむ木や家、そんなのが心のどこかをわくわくさせて、ずっと耳を澄まして聞いてしまうのです。

家庭の事情ってやつで、幼稚園を卒園したころから、ずっとひとりで寝ていました。
ひとつの部屋。ひとつの布団。ひとつの電球。
確かに幼いころから冷めた子供ではあったけれど、やはり暗闇というものは怖くて、色んなことを考えながら不安を消そうとしたものです。

そんな不安をなくしてくれるのが、台風の起こす音や振動でした。
屋根も壁も窓も壊れてしまえば、この小さな空間はなくなって、暗闇をかき消してくれそうな気がしたのかもしれません。
だから台風の時期になると、布団をかぶりながら、眠ることなく胸を躍らせていました。

中学生になると、母屋から離れた倉庫の二階で寝起きするようになり、より一層静けさと暗がりに慣れて、暗闇に対する不安は持たなくなっていきました。
いまでも、誰かといっしょに抱き合って寝たり、友だちと同じ部屋で寝たりするより、真っ暗な部屋でひとりで寝るほうが落ち着くのは、この頃の影響かもしれません。


あれから長い歳月が過ぎて、家も新しくなってしまったけれど、台風が来ると眠るときには幼い日々の夜を思い出します。
いまにも割れそうに震える窓ガラス。家の外を転がっていくバケツ。激しく戸を叩く風の音。
わたしにとって台風とは、興奮を呼ぶ合図であり、懐古の扉を開く鍵のようなものなのです。

明るいその場に不釣合いな低いトーンで、旧友の訃報を聞いた。
葬儀はすでに終わっており、亡骸はもう灰になっているという。

彼とは小・中学のころによく遊んだ。お互いの家に行き来して、日が落ちるまでゲームをしたりした。
すでに母親がいなかったわたしは、彼の家で夕食を何度もご馳走になった。
いまはもうない彼の古い家の間取りも温かい食卓も、少し目を閉じればいまでも思い出す。

当時学級委員だったこともあり、訃報を知ったあと、文集をひっぱりだして手当たり次第に電話をした。
地元に残っているひとは多くなく、お盆中ということでみんな忙しい身ながらも、20人近くが集まってくれた。複雑な気持ちを胸に。

10数年ぶりに会うおばさんは、やや疲れているようだったが、当時とほとんど変わりはないように若々しく見えた。父親のいない家庭を支えてきた強さが、おばさんの原動力なのだと思う。
それでも、焼香を終えたあと、色んなことがこみあげてきたのか、みんなの前で涙を見せた。
みんな泣いていた。

おばさんは昔から理髪店を営んでおり、父もわたしもよくお世話になった。
帰り際、「また今度、髪切ってもらいにくるね」と言い残して家をあとにした。
おばさんは、車が走り去るまで、ずっと玄関で見送ってくれた。
小さく、小さくなるまで。


不謹慎だと思うだろうが、こんなとき、わたしは無性にセックスがしたくなる。正直なところ相手は誰でもよく、ただ体を重ねていたくなる。
覆われるような死の匂いを払拭したくて、セックスすることで生きていることを実感したいのだと思う。それはオナニーでは代用できないこと。

「未亡人が男を求める」という俗諺は、きっと当たっている。
でもそれは肉欲からではなく、愛する人を失ったことによる虚無感や、死への恐れからなのでは。


おばさんは、仕事を明日にでも再開する。
喪失感を、忙しさで隠してしまうためだ。
「息子が亡くなったのに、もう仕事できるなんて」
そういう会話が聞こえてこないことを、心から祈っている。

闘病生活を送っていた叔父が、昨日亡くなった。まだ50にもなっていなかった。
やはりうちの家系は癌家系らしく、叔父も癌だった。
抗癌剤の副作用ですっかり髪のなくなった叔父の顔は、元気だったころと比べると別人のように見えた。

遺影にする写真を選ぶのに、叔父が使っていたノートパソコンに保存してある写真を見ようということになった。
叔父の長男といっしょに、大量の写真を見ながら、写りのいい写真を探す。
旅先での写真、職場での写真、長男のバスケの試合、それらのなかには確かに生きている叔父の姿があり、思わず涙が出そうになる。

そんななか、やっぱり叔父も男で、女性の裸の写真ばかりのフォルダを見つけた。
「すいません、それ削除してください」と、長男。
なにしてんだか、バカなんだから、と言いながら泣き笑いの顔。
それだけで、父と子の愛情を感じた。


死の瀬戸際に触れたり、死そのものを感じると、生に対しての尊さだとか執着心だとかを強く思う。
本当は、常にそれを思っていなければいけないのだが、人はみな鈍感だから、何気なく生きているとそういった気持ちが薄れがちになる。
そして、簡単に命を奪ったり傷つけたりする。

テレビで流れるニュース。どこかの国でテロが起きて何人死んだとか、雪崩が起きて誰と誰が行方不明だとか。正直そんなことにはあんまり関心を持てなくて、チャンネルを回してすぐに別のことを考える。
ほんとに身近で起きた死や不幸にしか、感情移入できない自分がいる。
それが普通なんだ、と言ってしまえばそれまでだけど。


今回の叔父の死で、ひとつ学んだことがある。
それは、パソコンに色んな情報を溜め込んでおくと、自分がこの世を去ったあとにそれを誰かに見られるかもしれないということ。

自分への評判に関するもの。たとえば、エッチな写真とか詩集とかこのサイトとか。そんなのはもう、死んでしまったら関係ないしあまり重要ではないかもしれない。
でも、モデルさんたちの写真や、みんなからもらったメールなど、そういった、他人にまで影響がありそうなものは、誰にも見られないようにしておく必要があると思った。

お盆休みぐらいに、パソコン内の整理と対策でもしよう。
ログインパスワードを間違ったら、アイーン顔が現れるとか。
そんなのみんな、笑ってくれるかな。

出張や旅行などで、一週間程度家を離れ、そのあと家に帰ってくるとほっとする。住み慣れた街で車を走らせ、見慣れた景色をみると肩の力が抜ける。
我が家が一番、という聞きなれたセリフ。

そういう”生まれ育った街”のような存在になれたら、素敵だなぁと思う。
張り詰めた日々が続くとき、電話をかけて声を聞くだけでほっとする。
泣きたいとき苛々するとき、何も話さなくても顔を見れば、不思議と安心するような、そんなひとに。

いつでも傍にいるひと、より、いつでも迎えてくれるひと。
そんなひとになりたい。いや、なろう。
もうそれなりの歳になったことだし、大それた理想でも、ないはずだ。

生命保険の捺印に使った印鑑が見当たらなくて、家中の大捜索をした。
その途中、ひとつの見慣れないセカンドバッグを見つけた。
父のものだ。

父の遺品を整理しているときに、捨てられないようなものをとりあえずこのバッグに放り込んでおいた。それ以来だから、かれこれ5年以上もそのままにしておいたということになる。

好奇心に駆られて、バッグを開けてみた。
なかにあったのは、医療機関関連のカードや、アドレス帳、財布など。
それらをひとつひとつ眺めていると、アドレス帳に、写真が二枚挟まっているのを見つけた。女性の写真だ。
色々記憶を思い返してみたが、わたしの知っている父の知り合いの顔のなかにはいない。いったいどういった関係のひとなのだろうか。

そういえば父の通夜の席で、友人のひとりがこんなことを言っていた。


「おまえのオヤジが入院する二週間ぐらい前、女連れておれんち来たことがあったんだわ。そんときはお茶飲んですぐ帰っちまったけど、あとから話聞いたら、結婚するかもしれんとかなんとか言ってたぞ。」

「その女のひとは、知ってるひと?」

「いや。」

「名前とか言ってなかった?」

「わからん。なんも訊いてなかったわ。」


この写真に写る女性は、生前父が付き合っていたひとだろうか。
写真はどちらも、女性がひとりだけで写っている。ただの知り合いならこんな写真を持っているだろうか。

写真が挟んであったページには、女性の名前と電話番号の書いたメモ用紙も残されていた。
なんだかわけもなくドキドキしてくる。
もし父の時間があのときで止まっていなかったら、いまこの家にこの女性がいるという可能性があったかもしれないのだ。


父はわたしとはまったく正反対のひとで、酒はよく飲むし几帳面だし綺麗好きだし女性関係は真面目だし。
母が家を出てから、ずっとひとりで家を支えていた。
そんな父が、想いをよせた(かもしれない)女性に、一度会ってみたと思った。会って、わたしの知らない父の姿を知りたいと思った。
でもいまさら彼女に連絡をとったところで、迷惑がられるだけかもしれない。そっとしておくほうが、きっといいのだ。
写真は再びバッグのなかにしまいこんだ。


もうひとつ、発見があった。
財布の中に昔の紙幣が入っていたのだ。
五千円札、千円札、五百円札、百円札、、、。
以前、小物入れのなかに、たくさんの切手とテレホンカードがあったのにはびっくりしたが、まだこんな隠れた趣味を持っていたなんて。
意外と父には、コレクター癖があったのかもしれない。

ただ、紙幣はどれもしわくちゃなものばかりで、これでは保管しておいてもきっと価値は上がらないだろう。
父の残念がる顔を想像して、ひとりでにやけながらバッグを元の場所に戻した。
そうそう。印鑑を探さなくては。

クリーニング屋はたまにしか利用しないのだが、行く店は決まっている。
お目当てはそこの看板おばあちゃん。言うまでもないがそっちの気はない。

おばあちゃんは、たぶん70歳とちょっと。白髪に曲がった背中。お世辞にも機敏とはいえない動作。
なのだが、暗算スピードはかなりの一品なのである。
はっきり言って、昨日行ったコンビニSの店員よりはレジの手際はいい。おばあちゃんを見習ってほしいくらいだ。

もしかしたら、レジの打ち間違えよりおばあちゃんの暗算のほうがミスが少ないんじゃないか、という妙な安心感。そこに「ベテランの技」を感じる。
長い歳月で培われた、おばあちゃんの脳内における前頭葉と視床下部間のシナプスの流れは…(中略)…であろう。うーん。素晴らしい。

最近そのクリーニング屋さんに行くと、店内に掲示された料金表を見ながら、おばあちゃんと暗算勝負を(勝手に)しかけている。
もちろん、まったく歯が立たない(笑)
なにしろ
「スーツ上下とスラックスで○円になります。」
と、答えが文章の流れになっているのだから相手になるわけがない。さらに付け加えると、それにはちゃんと消費税が加算されているのだ。

なんでもいいから、年老いても褪せることのないものを持ちたい。
そのころになったら(たぶん)生まれているであろう孫に、「すげー!おじいちゃんかっこいー!!」と言われる、という夢をひとつ加えて。

直リンク。画像やファイルそのもの。
サイトを運営していくうえで、経験したひとは多いと思う。

ネバブラも、直リンクされることはしばしばある。とくに写真素材。
以前の日記でも一度取り上げたことがあるが、ひどいのは、素材のアドレスや名前を替えても直リンクされたままであるということ。エラーログに永久に書き込まれ続けるのだ。

サイト上に注意文を載せたり、直リンクされている画像を変な画像とすり替えたり、色々と試してみたが効果はなかった。ほんとにイヤになる。
かといって泣き寝入りするのもイヤなので、ちょっとした意地悪をすることにした。それは、サイズの大きなファイルを、直リンクされている画像のファイル名でアップすることだ。ひとつのファイルで10MBを軽く超える。

こういったことを含めて、個人サイトを運営していくと様々な闘いを強いられることになる。掲示板荒らし、メールストーカー、某掲示板サイトでの非難や中傷、水面下での見えないバトル。
本来なら、ゲストと楽しくコミュニケーションをとれるはずである場所に、現実でのどろどろとした人間関係が入り込むのだ。


テレビ電話がなかなか浸透しない理由に「相手が見えるから」ということが挙げられる。これは利点でもあり、欠点でもある。
恋人に電話をするのには、身だしなみを整える必要があるだろうし、上司に仕事の電話をするのに、ラブホテルからというのもあまりいただけない。
自分の状況が相手に知られないことが電話の利点であり、知られないからこそ、多少の嘘や真意を話すことができるのだ。

ピンポンダッシュや怪文書の件数より、ワン切りやいたずら電話の件数のほうがはるかに多いのも、こういったことが関係してくる。
これは裏を返せば、自分の匿名性が増すほど、ひとは自由に行動するということになる。ネット世界はそれの典型ともいえるだろう。

普段から感情を隠すことなく、ありのままの自分で生活しているひとより、感情を押し殺して生活しているひとのほうが、匿名性のある世界では隠れた自分を露出させる。
それがエスカレートしていくことで、どんどんネットに依存していくようになってしまう。ネット上でなければ本音を表現できないからだ。

ネット上で知り合ったひとと実際に会ったときに、「イメージと全然違う。」と言われるより「イメージ通り。」と言われるほうがわたしは嬉しい。
オンライン、オフライン、などと例えるけれど、本当に繋がりを求めなくてはいけないのは、オフラインのほうこそではないかと思う。

ほとんどのひとが知っていると思う、2ちゃんねる。
過去に二度だけ、サイトを訪れたことがある。

一度目は、公開している写真を中傷するような書込みがあるという連絡をもらって、どんなことが書かれているのか確認しにいったとき。
(モデルさんに対してとてもひどいことが書かれてあった)
二度目は、アクセス解析を辿っていったときだ。

そこには、写真を公開しているたくさんのサイトの、批評とか難癖がずらずらと書き綴られていた。
そのなかにネバブラの話も出ていて、写真を撮るのが下手くそだとか、モデルがかわいくないだとか、散々なことを言われていた。
そして、そんな輩たちに怒りが沸いてくるなかで、こんな救いの書込みがあったのだ。

 「 桜井さんの悪口言わないで! 」

あの書込みを見つけたときほど、ネットをやっていて嬉しいと思ったことはない。それほど嬉しかった。応援してくれているひとがいるって、すごくありがたいと思った。
なんだかよくわからないハンドルネームだったし、メールアドレスも書いてなかったので、誰だったのかはわからない。
あれからだいぶ経ってしまったけれど、いま改めてお礼を言いたい。

ありがとう。

近くの集落に住む老人が行方不明になって、捜索協力の要請がきた。
70歳を過ぎたおばあちゃん。一人暮らしをしていた。
消息が途絶えてから、三日が経つ。

集まった警察官と消防団員の前で、息子さんが涙ながらに懇願していた。
同情しながらも「なんでそんなお年寄りに、一人暮らしをさせていたの?いっしょに住まない理由でもあったの?」という気持ちもわいてきていた。
それぞれの家庭にはそれぞれの事情があるわけだから、他人がとやかく言うことではないのかもしれない。でも、自分が歳をとってから、家にひとりで家族と離れ住むのは、とてもさみしいことだろうと思った。


「若さ」がいつまでも続くことではないのは、誰でも知っている。
そしてそこで選択をするのだ。
いまある若さを、とにかく存分に楽しむこと。
若さの先にある老いを、考えながら生きること。
そのどちらかを。

良否の判断はともかく、どちらかと問われれば、わたしは明らかに前者のほうだ。
人生のパートナーにするにはかなり不適。キリギリスみたいな生き方。
計画性がなく夢見がち。(ロマンティストといえば聞こえはいいが)
考えれば考えるほど、独身ヤモメのエリートコースを、順調に歩いているような気がしてくる。どっかで逸れないと。


結局おばあちゃんは、警察犬やヘリコプターまで出動して捜索したが、見つけ出すことはできなかった。たぶん休日も、捜索を続けることになるだろう。
一度も会ったことはない他人ではあるが、なんとか無事に見つかって欲しい、と、仏壇上の祖母の顔を見るとそう思う。

充分に生きたかどうかを決めるのは、年齢ではなく魂の貯蓄度だから。